救命病棟24時を見て、花輪先生の奥様のセリフにつぶやきシロー

さて、救命病棟24時を見たわけですが、納得できるてんこ盛りのせりふに「うん。そうそう。」などと「つぶやきシロー」(最近みかけておりませんが)になりながら見ておりました、はい。

前回と前々回で問題になった(←勝手に私が問題化^^;)「麻酔科は定時で帰れる」も、「オペが続いている限り、定時には帰れないですよ〜」の意見を反映したのか、「ウチの(強調)麻酔科は定時で帰れるし」にせりふが変わっていましたね。(細かいですか^^;?)

救命救急センターがあり、あれだけ重症の方が運ばれてくる病院でありながら、時間をすぎてのオペはやらないのでしょうか、あるいはオペが翌日までかかるということはないのでしょうか、というツッコミはやめておきましょう^^

救急車のサイレンの音に反応するとか、ナースコールの音が耳から離れないとか、家に帰ってもモニターの音が鳴り響くとか・・・それぞれに経験があるのではないでしょうか?夫もよくそれで飛び起きていました。

今回の主役は花輪先生だったように思います。特に私は花輪先生の奥様のせりふに、妙に納得してしまいました。

「大切なものを失うまで、それに気がつかない」
「プール、誕生日、遊園地に連れて行く約束をすっぽかしたのも一度や二度じゃない」

あー、私も言ったかもしれないな、このせりふ(汗)

私は夫の仕事を理解していると思っていました。夫の大変さ、責任の重さを十分わかっていながら、やはり一人で子育てやら家庭のこと一切を行っていくのが重くなって、つい口にしてしまったことがあったかもしれません。
(夫に確認したところ、記憶にないそうですが・・あまりに毎日言われすぎて覚えていないとか 笑?)

子供が生まれる前、夫は「行ってきます」と言って病院に行ったきり、メールも携帯もない時代。
夜になっても戻らず、ご飯を作って何度も暖めなおしをして、お風呂も何度も沸かしなおしをして(今のようにお風呂のタイマーや自動保温ができない時代)、いつ夫が帰ってきてもすぐにご飯とお風呂が用意できるようにしていました。

車の音がすると夫かと思って窓から外を見てみるのですが、夫ではありません。それを一晩に何度も何度も繰り返すわけです。

午前1時になっても2時になっても帰ってくることはなく、私はそのまま布団に入り、朝目が覚めると夫の帰ってきた形跡のない布団が敷かれたまま。。。。

患者さんが大変なんだ・・・(まさか浮気?)なんていうことを考えながら、毎日毎日を過ごしたものです。

帰ってきたと思えば、何科だろうとお互い助け合っていた時代で、急変処置で興奮した神経を抑えるために、他の科の先生とお酒を飲んで帰ってきたり・・・。夫婦の会話なんてありません。

実家の近くや、お店がたくさんある地域ならまだいいのです。地方の田舎の病院の、ぽつんと建っている官舎での生活。
夫だけが頼りなのに、夫が帰ってこないため、3日くらい誰とも口を利かなかったこともありました。(そうそう、口をきいたのがスーパーでレジで「またお越しくださいませ」と言われて「ありがとうございます」と答えたくらいだったり・・・。)

また、集合住宅形式の官舎では、奥さま同士の人間関係の渦に巻き込まれたり、共にランチ♪など、属さなければ何を言われるかわからない世界ということもありました。

子供が生まれてからも、疲労困憊の夫は、帰ってきたら「寝る」の人間の基本的生活を行うので精一杯。子供が「遊んで」と近寄って行っても「お父さんはお仕事で疲れているから、寝せておいてあげようね」と。

そのうち、夫なしで子どもと過ごす生活リズムが出来上がりました。

今でも思いだすと可哀相だったのが、今ほどシングルマザーのいなかった時代、幼稚園の運動会ではお父さんと競技に出て、最後はお父さんにおんぶしてゴールするというものがありました。

その当時、私は流産しかかっていて、夫の代わりに競技に出るのは無理。おじいちゃんおばあちゃんもいないため、夫になんとかその時間に間に合うように抜けてきてほしいと頼みました。(その日は日曜でした。)

しかし・・・夫は来ませんでした。お友達のお父さんに変わりをお願いし、よーいドンの笛が鳴っても、子供は誰と走ってよいか分からず、立ち止まっていました。

お友達のお父さんに手を引いてもらいなんとか走り出したものの、最後のゴール近くでは、周りでお父さんの背中におぶさって意気揚々としているお友達の中で、こわばったような泣きそうな表情をしておんぶされている子供の姿がありました。

夫は患者さんの件でどうしても抜けられなくなった・・・私も理解はしていました。けれども、理性と感情は一致することができませんでした。あの時の子供の顔は、今も頭から離れません。

家庭にパソコンも携帯もない時代のことですから、孤独感はかなりのものでした。子供の教育にのめり込んでいく奥様もいました。

そんな時代があるので、花輪先生ご夫妻の会話は、妙に納得して見ていました。今となっては懐かしい(・・懐かしくもない)思い出ですが・・・。
(…と、こういうことを書くと、さも自分のことのようにパクって書く人がいるわけですが・・・・)

体力の限界、視力の低下、管理職になったことでの軋轢などなど、もろもろの理由があって開業医となったわけですが、それでも世の中は「勤務医VS開業医」「お金儲けの開業医」などと煽りたいようですので、ちょっと違和感を感じるわけです。

昨日のストーリーの中には、救急医が全員一斉辞職と言う、鳥取大学医学部で実際にあったことも含まれていたように思います。

花輪先生がおっしゃっていた「救急は『休めない』「眠れない』『金にならない』」「人を救うために、自分の家庭を壊していたら世話ないな。」

小島先生がおっしゃっていた「治療や薬も大切だけど、人を思う心のあたたかさが、時として患者を救うことがある。」

澤井先生がおっしゃっていた「今、我が国の救急医療は崩壊寸前です。しかし、そんな環境の中でも人々を救おうと努力している人間たちがいます。彼らを動かしているものは、責任感と患者への思いです。彼らは今、この瞬間も、すべてを犠牲にして戦っているのです。」

このセリフに、昨日のストーリーのすべてが詰まっていたように思います。

3班制による新たな高度救命センターの体制つくり。期待しています。